2008年06月19日

「隣人祭」とはいったい何ぞや?

クローズアップ現代をチラ見しながら
夕食の準備をしようとしたのだが、
なかなか興味深い内容だったのでついに手を休めて
テレビの前で落ち着いてしまった。

まあ、PTAや町内会など、地域社会に関わり、
いろんな問題などを考えてきた中で、
正直、これは素晴らしい!ともろ手を上げて
喝采する気のにはなれなかった。

「隣人祭」とは、つまり、ご近所に声をかけ、
食べ物や飲み物持参で集まったりし
てコミュニケーションの場を作りましょうということだ。
近所の老人が孤独死したことをきっかけに
フランスの青年が始めたものが、今や全世界に広がり、
各地でそういった「祭」が催されるようになったとのことだ。

普段人間関係が希薄な、都会のマンションの住民が
近所の公園に集まってパーティーを開いたという
日本の例なども紹介されていた。
まあ、これはこれで結構なことだと思う。

僕もおよそ25年前、現在の住宅地に引っ越してきた頃は、
いったいどういう共同体が成立するのだろうか、と不安に
思っていたのだが、それほど隣人訴訟などが起こるような
キリキリするような人間関係はなかった。

当時、近所にウチのと同世代の子どももたくさんいて、
お互いの子どもの預かりっこは日常的だったし、
僕が職場から帰宅すると、
子どもの数が倍増していることもしばしばだったし。
あるいは、ウチの子がいなくなってるとかね。
困った時には助け合うというムードも非常に強くあったようだ。
我が家は本当にお世話にななったのだ。

3丁目の夕日ではないけれど、なんだか本当に
古き佳き日本の雰囲気があったような気がした。
けっこう高齢者もいたり、おせっかいとも思えるような
ねちねちした部分も多少あり、同じように、
新しくここへ越してきた若い家族などは
前からいる人と馴染めず町内会のも参加せず、
完全に孤立している人たちもいた。

そういった人はそういった人とだけ付き合うようになり、
それが逆に非常にいい距離感の共同体を作る
きっかけになっていると思もう。
近からず遠からずというのを、
皆さん経験でわかっていたような気がした。

世代的にもいろいろな方々がいて非常にバランスのよい、
安全面や環境面なども無言のうちに言及しながら
非常に温かいコミュニティーが成立していたのかもしれない。

今はやや違ってきたようだが・・・。

クローズアップ現代でも、実際交流してみたら、
実はみんなかかわり合いたがっていた、誤解していた、
言いたいことが言えないでいた、
というような発見が多々あったと紹介されていた。
なるほど、その通りかもしれない。

まさし、3丁目の夕日的そういうご近所の人情の
復権のようなことが叫ばれるのは、
それ自体は正常なことですし、大いに結構なことだと思う。

しかし、番組にでていた解説の辻信一氏は
そうして「祭」にしないと、そういう関係が築けないというのは、
これはどんなものなんでしょう。
祭は非日常であり、ハレの場であるわけだがら、
そういう非日常的インパクトをもってしないと
日常が立ち上がらないという現状、少し心配だ。

もちろん、古来「祭」というのものは、
そういう機能も備えおり、凝固した日常を融解する、
あるいは逆に放浪しそうな日常を繋留する
という役割があった。
しかし、「祭」は「マレビト」を招来するのが本来であって、
「隣人」を招くものではないのだ。
「隣人」はともに招く立場であるべきで、
招かれる「マレビト」ではないはずだ。

昨年、引っ越してきたお隣さんは
いまだに誰か分からないし、当然顔も見たことがない。
そういった関係はやはり少しばかり不安な面がある。

最近起こる事件などを見るとみな孤独や不安に
押しつぶされそうになっているのかもしれない、
そういった意味で少なくともお隣りや近所と心地好い
コミュニケーションを計ることは脱孤独、不安の
切っ掛けになるのかもしれない。

住宅地で起こった事件などで、
目撃者がいないのは、関わりたくない、
という普段の関係性からきているのでは
ないだろうか、と言われている。

けどやはり僕は近所から
嫌われているような気がするのだ。
これはやはり問題だ。
posted by ぽらん at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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